top of page

HARU TO NOISE宮沢賢治『春と修羅』を、ノイズでうたう

  • 執筆者の写真: TANPENS 編集室
    TANPENS 編集室
  • 4月20日
  • 読了時間: 3分

音にしてわかる、宮沢賢治のオノマトペ。生誕130年の2026年、『春と修羅』を声とノイズで再構築するBLACKTAMBOURINEの実験。


HARU TO NOISEは宮沢賢治『春と修羅』を、現代の音楽として再構築するプロジェクト。

本企画は、宮沢賢治生誕130年にあたる2026年、『TANPENS』2026年春号で紹介したBLACK TAMBOURINEの新たな試みとして始まった。


詩は、ほんとうに静かなものなのか。


宮沢賢治の『春と修羅』を読むとき、僕たちはつい「文学」として読もうとする。

教科書のなかの詩。美しい言葉。自然と宇宙と宗教的な感受性。透明で、繊細で、どこか遠いもの。

けれど、ほんとうにそうだろうか。

僕たちは宮沢賢治をなにか高尚なものとして扱っていないだろうか。

BLACK TAMBOURINEは文学を遠いものとしては扱わない。

古典だったり教科書に載っていたりする文学を僕らはつい「お勉強」として見てしまうことがある。でも、当時の文学、いや文芸と呼ばれるものは、現代では言えば「漫画」や「ロック」と同じような迎え入れられ方をしていたのではないか。 お気に入りのバンドや、漫画家の新刊が出るときの興奮を、当時の若者たちは体感したのではないだろうか。なにせ文学を志すことは当時であれば親不孝の代名詞であり、勘当されてもおかしくなかった。つまりは不良のすることだったのだ。


ましてや宮沢賢治である。

彼は生きている間売れなかった。つまりメジャー作家ではない。

いろいろ批判はあると思うが、あえていうなら、彼はインディーズだ。もっと言えばアングラだ。

彼を読む=感じるには、お上品さではきっと足りない。

そこから生まれたのが、noiseというアプローチだ。

オノマトペが、詩を歌に変える。


宮沢賢治の詩は、わからない。

いきなり身も蓋もないことを書くが、わからないものはわからない。

読んでいると、科学の話をしているのか、宗教の話をしているのか、風景の話をしているのか、心の中の話をしているのか、途中でわからなくなる。

でも、それでいいのではないかと思った。

なぜなら、音にするとわかるからだ。

意味はわからない。でも、音はわかる。

宮沢賢治の言葉には、やたらと音がある。風の音。雪の音。光の音。空気の音。身体の中で鳴っている、説明できない音。

とくにオノマトペがすごい。

それは、単なる擬音ではない。文章をわかりやすくするための効果音でもない。むしろ、意味になる前の世界の音だ。

だから、読むだけでは入ってこなかったものが、歌になると急に入ってくる。

朗読では遠かった情景が、メロディに乗った瞬間、急に近くなる。よくわからなかった言葉が、リズムになる。リズムになると、身体が先に受け取る。身体が受け取ってから、あとで意味が追いかけてくる。

これは、文学を「理解する」こととは少し違う。

もっと雑でいい。もっと乱暴でいい。もっと身体で受け取っていい。

宮沢賢治の詩は、高尚な棚の上に置いておくには、あまりにも音が鳴りすぎている。

だから、僕らはそれをnoiseにする。きれいに朗読するのではなく、歪ませる。お上品に解釈するのではなく、鳴らす。詩を遠くから眺めるのではなく、スピーカーから浴びる。

HARU TO NOISEは、宮沢賢治を正しく読むための企画ではない。宮沢賢治を、もう一度、音として感じるための企画である。



コメント


bottom of page