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天幻自在

  • 柴野裕治
  • 6月15日
  • 読了時間: 16分

第2回小さな小さな文学賞大賞作品「天幻自在」

小さな小さな文学賞はTANPENSが主催する商店街や店舗単位の日本でおそらく一番小さな文学賞。今回のテーマは「ビールのある風景」。大賞作品に選ばれた「天幻自在」はそのままタイトル名が商品名となり2025年夏に発売された。

このコラムでは大賞作品の全文を公開。ビール片手にどうぞお楽しみください。



 新緑の茶畑を縫うように、時速二七〇キロで西に向かっていた。

「わあ!」

 新幹線の車窓を彩る青緑色の風景に、隣の摩耶が思わず声を上げる。僕は婚約者の感嘆に、少し気障に返した。

「まるで絵画だね」

「ほんと素敵。そうだ、お茶。喉乾いてる?」

 摩耶は鞄の奥からマグボトルを取り出すと、通路側に座る僕に差し出した。

「ありがとう。ずっとカラカラだった」

「そんなに緊張しないで。翔也のことは一応伝えてあるから……」と照れながら微笑む彼女は、いつもより眩しく見える。


 僕らは結婚の許しを得るため、摩耶の実家に向かっていた。

 一九九五年生まれ、スーパーゆとり世代の僕でさえ、初めて訪れる婚約者の実家というプレッシャーは尋常ではない。それでも、首都圏の中堅大学卒業、大手上場企業勤務、同年代と比較して収入も悪くない。娘の結婚相手としては及第点だろう……きっと大丈夫。

 などと自分を鼓舞しながら、数日間は痛いほど張り詰め、今日に臨んでいた。


「でも、ほんとにいいの? お義父さんのこと」

「いいの、いいの。どうせ年に何日かしか家に居ないし。帰ってくるのはいつも突然なんだから。予定なんて合わせられないよ」

「失礼じゃない?」

「平気だって。礼儀とか全然気にする人じゃないし、私とお母さんで、ちゃんと言っとくから」

「じゃあ、せめてビデオ通話かなんかで、近々ご挨拶させてよ」

「……うん。わかった」

 彼女の父親は、仕事で日本中を飛び回る忙しい人だと聞いていた。おかげで結婚の挨拶と言えども日程を合わせるのは至難の業で、今日の相手は母親だけ。父親には摩耶が後日報告するという、イレギュラーではあるが、そんな手はずだった。


「芦屋って、やっぱり裕福な家が多いんだろ?」

「どうかなあ……。でも、うちは全然そんなことないよ。普通普通」

「ほんと? 摩耶が何でもいいって言うから、ほんとにせんべいしか買ってこなかったよ。お金持ちの口に合う?」

「大丈夫、大丈夫!」

 京都駅を過ぎ、そんな僕の気掛かりに、摩耶が大げさに手を振って否定していると、座席の背面テーブルに置かれた彼女のスマートフォンが「ブーッ、ブーッ」と二度震えた。

「え? ……やば」

 顔認証でロックを外し、メッセージアプリを開く彼女の手が止まる。

「なに? どうしたの?」

「お父さん、さっき帰って来たって」

 摩耶の顔が青ざめているのに、僕はこの時気づいていない。

「お義母さんから? ほんと突然なんだね。じゃあ今日はお義父さんも家に居るってことか」

「……うん」

「予定外だけど、良かったじゃん」

「……」

 彼女はそれきり黙りこくってしまった。


――まもなく終点新大阪です。東海道線、おおさか東線と地下鉄線はお乗り換えです――


 北陸の田舎町で育った僕にとって、今住んでいる東京もこの大阪も、どちらも大都会ではあったが、特に関西に足を踏み入れると、故郷とは異世界の独特のせわしなさを感じる。

「大阪って、いつ来ても運動会みたいだな」

 そんなつまらない感想にも、摩耶は相変わらず何も返してこない。


 僕らはそのままJRを乗り継いだ。土曜の昼過ぎ、電車は存外混雑していて、部活の遠征なのか、揃いのジャージにスポーツバッグを持った高校生の集団が、並んで吊革を持つ僕らを取り巻いた。摩耶も高校生の頃、こんな風に友達と電車に乗っていたことだろう。もっと幼い時はどんな女の子だったのか、などと僕は思いを巡らせていた。

 オンラインゲームのオフ会をきっかけに、三つ年下の摩耶と付き合い始めたのが一年半前。思えば彼女の生い立ちや過去については、ほとんど知らなかった。

 だからなのか、彼女の生まれたこの街に足を踏み入れ、僕は緊張とは別の胸の高鳴りを感じていた。

「なあ、さっきの話。お義父さんが帰って来てるなら、ちょうど良かったじゃないか」

「…………うん」

 摩耶は母親からの連絡以降、はしゃいでいたのが嘘のように、口数も少なく表情も硬い。

「摩耶は、たしかひとりっ子だったよね?」

「うん」

「両親は今、二人暮らし?」

「うん」

「お義父さんは自営業、お義母さんは専業主婦でよかった?」

「そう」

 家族の輪郭をあぶり出すため、彼女から事前に聞いていた細切れのピースを繋ぎ合わせる。

「あのね、翔也……」

「ん?」

「やっぱり、いい。何でもない」

 僕の方には目もくれず、摩耶は窓の外に流れる景色を眺めていた。

「さっきから変だぞ。お義父さんが居ると、何か不都合でもあるのか?」

「……別に」


 摩耶の実家は、芦屋駅からタクシーで十五分ほどのところにあった。

「〇〇町×丁目まで」

 運転手にそう言うと、摩耶は少し俯いてまた黙り、僕らは重苦しい雰囲気のままタクシーに揺られた。途中、太陽が反射する長い坂道を上ったかと思うと、家並みが明らかにラグジュアリーな様相を帯び始める。

「これ、山の手ってやつじゃないのか?」

 僕は子どものようにタクシーの窓に両手を合わせ、外を覗き込んだ。

「翔也、驚かないでね」摩耶が静かに呟く。

「だってこんな……、ビバリーヒルズじゃん! 行ったこと無いけど」

「いや、そこじゃなくて」

 フロントガラスに、ひと際大きな日本家屋が写り込む。「ここで」と摩耶が短く告げると、車はその門前でハザードランプを点滅させた。

 支払いを済ませ、僕が急かされるようにタクシーを降りると、摩耶は空気を目一杯吸い込み、その全てを吐き出してもまだ余りあるほどの大きな溜息をついた。

「フーーーーーーーーーーッ」


 僕の実家の十倍はあろうかという敷地を、笠木瓦が施された塀がぐるりと囲む。手入れの行き届いた庭木が何本も植えられた、厳かな平屋に圧倒される。

「お金持ち確定じゃん! どうしよう、せんべいしか持ってきてないよ」

『TAIMATSUMARU』と苗字には似つかわしくないローマ字表記の表札。しかし、そんなことを口にさせないほど豪壮たる門構え。此処こそ松明丸摩耶の、僕の婚約者の生家である。

 摩耶が表札横のインターフォンを鳴らすと、「ピンポーン」とその音は実にありきたりなものだったが、それがむしろお金持の風格ではないのかと錯覚させるほど、僕は完全にのまれていた。

「はーい」

「お母さん。摩耶」

「今開ける」

もったいぶった音が「ガチャッ」と鳴り、門扉解錠。

「ちょっと摩耶、摩耶! 心の準備!」

 僕は上着のボタンを閉めながら、先に玄関ドアまでの長いアプローチを往く摩耶を制した。

彼女はおもむろに振り返り、またもフーっと長い溜息をつくと、

「翔也、黙っててごめん。……もう腹くくるわ」と両手を目の高さで合わせ、僕を拝むように言った。

「何? お金持だってこと?」

 かぶりを振る摩耶。

「違う…………。うちのお父さん、天狗なんよ――」

 それは、「うちのお父さん、暑がりなんよ」と言うくらい、何気なく放たれた。

 僕は、普段標準語を話す摩耶が、不意に発する関西弁が好きだったが、それにしてもこれほどの金持ちなら、少々鼻にかけたところで当然だろう、とは思っていた。


 それから摩耶はまた反転し、アプローチを進んだ。

 横引きの重厚なドアを開けると、ワシントン条約を懸念せずにはいられない立派な虎の剥製が広い玄関ホールに鎮座し、こちらを威圧した。

「ただいま。連れて来たよ」

 長い廊下の向こうからハイブランドのエプロンを付けた痩躯の女性が、スリッパの音をパタパタとさせながら現れる。

「いらっしゃい。遠くからわざわざ来てくれて、ほんまにありがとう」

 うちの母親とは大違いの、品の良い美人である。おそらく摩耶は母親似だ。

「はじめまして。川村翔也と申します。本日は、ありがとうございます」

 僕がうやうやしく頭を下げ、初対面の挨拶に取り掛かると、摩耶がそれを遮るように母親に目配せした。

「ねえ! 居るの? 何でよりによって今日」

「仕方ないやん。帰って来たんだから」

 母娘の飾らぬ会話である。

「まあ、こんな所じゃなんやし。翔也さん、上がって」

 僕ら二人は摩耶の母に続いて、長い廊下を歩いた。

 虎の脇をすり抜け、突き当りの部屋に通されると、ここだけでも僕の住むマンションよりずいぶん広く、三十畳はありそうな和室の真ん中に、無垢の欅と思われる大きな座卓、ふかふかの座布団が四枚敷かれ、床の間には小さな鉢植えのヤツデと、達筆すぎて何と書かれているのか読めない掛け軸が飾られていた。

「こういう場合、やっぱり立って待つのが常識だよね?」

 摩耶の母が主を呼びに出て行った後、僕は此処での唯一の味方である摩耶の顔を覗き込んだ。彼女は実家に到着して気が抜けたのか、自分だけはさっさと座布団の上に尻をつき、足を伸ばした。

「どうかな……。うちのお父さん、ほんとに礼儀とかそういうの気にしないから。ただ…………天狗なんよ」

 ナーバスな気持ちを逆撫でする、くどいブラックジョークに僕は思わず声を荒らげた。

「さっきから天狗天狗って、何なんだよ、いったい! いい加減に――」


――――ガラッ!


 言葉をかき消すように、閉められていた和室の襖が威勢よく開けられた。

 真っ白な総髪、顎から胸元にかけての髭。鈴懸の上からでも分かる、筋骨隆々のラガーマン体型。鴨居を避けるため、腰を深く屈めなければ入室できないほどの身長は、ゆうに一九〇はありそうだ。よく見ればハリウッド俳優より高い鼻と、ほんのり赤ら顔のその男性は、座卓を挟んで仁王立ちした。

 うん、完全に天狗だ――。日本昔話で見たような。


「お父さん、久し振り」

 お父さん……。やはりお義父さんなのか。

 摩耶が座りながら片手をあげると、それまで僕を真正面から観察していた天狗のお義父さんは、いや、お義父さん天狗は、満面の笑みで娘を見降ろした。

「お帰り~。一年ぶりやな~」

「そうだっけ?」

「全然帰って来えへんやん。お父ちゃん心配してたで」

「だって、帰ってきても居ないでしょ。家に」

「仕事やもん」

 舌を出し、お道化る父親に対し、摩耶は明らかに塩だった。

 どこかの部屋で掛け時計が「ボーン、ボーン」と二回鳴るのが聞こえ、立ったまま唖然としていた僕は、咄嗟に我に返り、姿勢を正した。

「あ、あ、は、はじめま……て。か、か、川……翔也……。摩耶さんと、お、お、お付き合い……」

 天狗は……、もとい、お義父さんは挨拶の途中で座布団の上に胡坐をかくと、

「そんなにかしこまらんと、座って」と着座を促し、「あれやな。昔、バファローズでショート守ってた……八番のあいつに似とるな。名前忘れたけど、バントの上手い男前や」と軽いジャブで僕を牽制した。

 僕は慌てて正座すると、下を向いたままモジモジした。

 小さな頃から、近隣の主婦たちの井戸端会議に難なく溶け込めるほどのコミュニケーション能力を自負していた僕は、天狗を前に、無力で無口な来訪者だった。

 そこに、茶道具を備えたお義母さんが戻ってくると、摩耶の両親が目の前に揃った。結婚の許しを得るなら今だ……普通なら……僕は思った。

「お、おと、お義父さん、お、お義母……さん。けけ、まま摩耶さんと、けっけ、けこ……けけ」

 通常の結婚挨拶の想定を遥かに超える状況に、僕の周章狼狽はピークに達した。

「翔也、落ち着いて! お父さん、根はやさしい人だから」

 見かねた摩耶が助け舟を出す。

 黙って腕組みをしていた天狗お義父さんは、

「まあ、摩耶。翔也くんもびっくりしてるんやろ。それはもう、びっくりしてるわ」と笑った。

「ムリも無いわよ。初対面の彼女の父親が、天狗て」お義母さんも割って入る。

 松明丸家の優しさに触れ、少しだけ落ち着きを取り戻す中、僕は左手に置いたせんべいの包みを思い出していた。

「あの、こ、これ、お口に合うかどうかわかりませんが……せ、せんべいです」

 赤ら顔がほころぶ。

「おおきに。ワシ、せんべいは大好物やで。そうや、峰子。翔也くんも緊張してるし、ほぐすために一杯やろうやないか。話はその後や」

 天狗夫の提案に、お義母さんは奥のキッチンから正月でもお目にかかれない豪勢な料理と飲み物を持ってきた。

「これ、ワシが最近気に入ってるビールやねん。どや? 飲めるんやろ」

「は、はい」

 ラベルに『天幻自在(TEN‐JZ)』と書かれた、透明感のあるビールが全員のグラスに注がれ、これまで経験したことの無い鮮彩な香りが漂う。爽やかな泡立ちとは対照的に、その佇まいは実に妖艶だ。

「てん、げん?」摩耶がラベルを読み上げる。

「そう、『てんげんじざい』や。ワシが職人に頼んで造ってもらった、クラフトビール。かっこええやろ! うまいでぇ」

「もー、お父さん、そいうのばっかり凝って。10‐GOOD(テングー)ってビーフジャーキー、前に作ったのいつだっけ? どうせまた全部、お母さんに手配してもらったんでしょ」

「そやねん。世を忍ぶ天狗のワシが、直接頼むわけにはいかんやろ。わっはっはっは」

「ははははは」「うふふふふ」

 どこが面白いのかは分からなかったが、家族の鉄板ネタなのか僕以外全員が顔を見合わせて笑った。


 杯を重ねると、お義父さんの目論見通り、まるでビールの魔法にかかったかのように僕らは急速に打ち解けた。そして、天狗のフォルムも概ね気にならなくなったタイミングで僕は座布団を外し、もう一度かしこまった。

「お義父さん、お義母さん。摩耶さんとの結婚をお許しください」

 畳に擦るようにして僕が深々と頭を下げると、それまで芸能ゴシップに花を咲かせていた摩耶の両親は、莞爾として顔を見合わせた。そして、酔いなのか本来の姿なのか、登場時には仄かな赤ら顔だったお義父さんは、フェラーリと見紛うくらいに頬を真っ赤にして僕に言った。

「まあ、手を上げて。話はだいたい分かっとるし。ところで翔也くん。あんた正味の話、ワシのことどう思っとる?」

 返答に窮し、暫く押し黙る僕の背中を、摩耶が拳で軽く突いた。

「え、あ、あの。正直驚いています……が、もしかしてその、コスプレとか。その類のものかなあ……どうかなあ? ……なんて」

 僕が言い終えるより先にお義父さんは立ち上がり、掃き出しの窓から裸足で外へ出ると、「近く寄って、ちょっと見ててな」と手招きした。

 膝を曲げて少し屈み、軽くジャンプ――。

 屋根も電線も余裕で越えたその体は、約三〇メートル上空でカラスの群れに飛び込むと、一羽をわしづかみにしてまた庭に降り立った。そして、もがくカラスをパッと放し、今度は目の前に据えられた、軽自動車ほどもある大きな庭石を片手でつかむと、ピザ生地を伸ばすように人差し指でくるくると回して見せた。

「こんなんは余興やけどな」

 そう言いながら部屋に戻り、座布団の上でまたグラスのビールを一息で飲み干すお義父さんの顔は、なんとも涼し気だ。

「コスプレとか言って、す、すみませんでした!」

 本物を確信した僕は、アルコールが入っていなかったら失神していたかもしれない。

「分かってもらえたやろか?」

「は、はい」

「そこでや!」

 空になったグラスにビールを注ぎながら、お義父さんは身を乗り出した。

「あんたが摩耶のことを嫁に欲しいって言うんやったら、天狗を継がなあかん」

「つ、つぐ?」

「そうや。ワシも、コレの父親から継いだんや」

 隣に座るお義母さんを親指で指した。

「あの、継ぐって……? どういう意味なんですか」

 ニヤッと笑う僕以外の三人。

「そもそも天狗は遺伝やない、成るものや」

「……ってことはお義父さんも生まれつき天狗だったわけじゃ?」

「生まれつきって……、なんでやねん!」

 あっけにとられる僕の目をじっと見つめながら、お義父さんは続けた。


「あれは三十年前。当時、峰子と真剣交際していたワシは、今のあんたと同じようにこの家に結婚の挨拶にやってきた。そこで峰子の父親、つまり先代の天狗から、『娘と結婚したいんやったら、天狗になれ』言われたんや」

「それで、承諾した……?」

「そや。天狗っちゅうのは、代々女の子しか授からん。その娘を娶った者が、天狗を継承するって仕組みなんやな。まあ、婿養子や。ワシかて生まれは所沢よ、埼玉の」

 お義父さんの関西弁が、妙に似非っぽいのにも合点がいった。

「この人そこで、『峰子さんと夫婦になれるなら、何でもします! それが僕の愛情です』って、格好良かったやんな」と、隣のお義母さんがはにかむと、お義父さんはいかにも満足そうに頷いた。

「あの……。天狗が成るものだってことは分かったんですが、どうやって? 僕はお義父さんのように特殊な能力なんて、何ひとつ……」

 お義父さんはまた「わっはっはっは」と笑って、「簡単や」と言った。そして、

「六甲の摩耶山に天狗岩大神ってのがある。あそこは近畿天狗組合の本部なんよ。夜中、そう、二時か二時半くらいか……、ワシと行って入会手続きするだけやん。四、五日待って審査が通れば、そこで晴れてワシと世代交代てな運びや」

「そんな、フワッとした手続き……で?」

 そう聞きながら、他にも日本中に天狗が居るのかと想像して震えた。

「天狗の能力も風体も、その瞬間授かるわ。ワシも最初は半信半疑やったけど、慣れるとええもんやで。おいそれと世間に姿は晒せんけど、大阪東京間なんか、四十分もあれば楽勝やからね。ジャンボより早いわ」

 三男坊の僕が婿養子になることは問題ない。しかし、今の生活を捨てて、天狗になる……。ほんの数時間前までは想像もしなかった事態に、思考回路はパンクしそうだった。

「あ、そうや。ワシらの仕事な」

「仕事……ですか」

「そらそうやろ。仕事せえへんかったら、嫁と子ども食わせていけんがな」

「そ、そうですよね」

「ワシらの仕事、ひと言で言うと国土防衛や。某国からのミサイルやら領空侵犯やらを、仲間と一緒に見張ったり。おまけに最近は災害も多いやろ? そんな現場で人命救助も災害復旧もする。オスプレイに追いつけ追い越せ言うて、防衛省からの信頼も報酬もごっついで」

「そんな重大任務を人知れず!?」

「国家機密事項。ワシらこう見えて伝説のモノやし、大っぴらに出て行ったら日本中大パニックやろ。仕事の難しさゆうたら、まあ、あんまり人に見つからんように気を付ける、せいぜいそんなもんや。一日で北海道から沖縄まで何往復もする忙しい日もあるけど、やりがいは桁違い。変化の連続、端倪すべかざるや」

「日本中を飛び回るって、そういう事だったんですね……」

 僕は、日夜国民のために人知れず働くお義父さんを、天狗を崇め始めていた。


 すると、それまで黙って聞いていた摩耶は、僕のほうに向き直って言った。

「私、お母さんと相談して、翔也にお父さんを会わせないでおこうって、天狗なんか継がないでもらおうって、思ってたんだけど……。こうなったら仕方ないわね。こんな私を、天狗の娘を、それでもお嫁にもらってくれる?」

 三人の視線が僕に注がれる。

 僕は、秘密裏に国を守る天狗という存在に、もはや憧れすら抱いていた。そして何より、僕の摩耶への愛情は、ここに来てからもずっと揺らぐことはなかった。

「摩耶。あらためて、僕と結婚してください!」

「はい」

 摩耶が頬を赤らめる。もちろん天狗のそれではない。

「カンパイや!」

 お義父さんがグラスを掲げ、だだっ広い和室が湧きたつ。喉を伝わるビールの冷たさが心地良かった。

 この一週間後、僕は正式に組合員に、いや、天狗になった。


――あの日、初めて摩耶の実家を訪れた、衝撃の日から三十年。僕はお義父さんに倣い、長年に渡って日本全国を飛び回った。

 かの国のミサイルとも人工衛星とも呼ばれるものから国土を守り、時には『天狗の隠れ蓑』を着込み、災害から直接人命を救ったり、被災地を復旧したりもした。

 それは、文字通り身を削るほどの日々ではあったが、愛する摩耶と一人娘にも恵まれた僕の人生は、あの時、天狗の道を選んだ瞬間からずっと満たされていた。


 そして今日。娘の婚約者が、初めてこの芦屋の我が家を訪れる。

 僕は後継候補となる彼に、いったい何から話そうかと思案に暮れながら、冷蔵庫いっぱいに詰めた天幻自在を一本抜き取り、少しフライング気味に栓を開けた。



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